諏訪哲史『りすん』

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講談社、296ページ

作為と無作為のせめぎ合い


この小説の特異さは適当にページを開けばすぐにわかります。
「」に次ぐ「」。というかすべての文字は「」の中にある。
そう、この小説はすべて人の会話で成り立っていて、その内面や、部屋の状況、仕草などのト書き・描写は一切ありません。
ページの上端が【「】で埋め尽くされているのは、本当に不思議な感覚です。

作者は諏訪哲史。彼の本を読むのは2冊目。
処女作であり第50回群像新人文学賞第137回芥川龍之介賞を受賞した『アサッテの人』も去年読んで、2014年のまとめの「読んだ本TOP10」にも入れさせていただきました。

諏訪哲史は「文学的テロリスト」の異名を持ち、小説という表現形式に挑戦し続けている。
「アサッテの人」やこの「りすん」にも登場する「アサッテ」という言葉がそのうちの一つだ。
小説というのは明らかに物語であり、そこには作者の作為が存在する。
しかし、実際の生というものはそういうものではない。
何気ない会話の途中にいきなり「ポンパッ!!」と叫ぶような、まったく見当違いな(アサッテの方向に向いた)出来事を目の当たりにして初めて我々は生きていることを実感する。予定調和の出来事なんて、それはリアルではない。
説明不足かもしれないが、それがこの諏訪哲史が考える「アサッテ」であり、彼なりの「リアリティ」である。
僕は「アサッテの人」を読んで、このコンセプトに深く感動し、共感しました。

そんな彼の2作目を友達が持っていたので、ぜひと言って借りてきました。そしてバンクーバーまで持ってきちゃいました。
でもすぐ読めてしまいました。なんせ会話文だけで地の文がなく、分量も少ないからです。
前作の主人公が今作の主人公の兄妹の父親として仄めかされるという形で登場したり、「ポンパ」などという「アサッテ言葉」も調所に登場したりすることから、この2冊はついになってることがわかります。

そしてこの小説は、途中からさらにその形を変えます。
自らが小説の中にいることに気が付いた主人公たち」と「この小説を純粋無垢な全く作為の介入しない小説にしたい作者」の戦いです。
それは読む者もドキッとさせ、「書く側」「書かれる側」「読む側」「読まれる側」「聴く側」「聴かれる側」が入り乱れたカオス状態へと突入していきます。
特に作者のドナー提供によって主人公が生き延びる、という展開には思わず舌を巻きました。それは作者の意思なのか、それとも主人公自身の意思なのか。

ぜひ手に取ってみてほしい1冊です。『アサッテの人』ももう一回読みたくなってきました。
さらにこの小説舞台化されていたみたいです。どんな風になってたんだろ。気になる。

★★★★☆
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Theme: 書評 - Genre: 本・雑誌

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