永井純一『ロックフェスの社会学 個人化社会における祝祭をめぐって』

rockfesnoshakaigaku.jpg
ミネルヴァ書房、260ページ

やっぱり好きになれないフェス文化とロカホリ

Twitterで誰かが言及していたのと、なんか面白そうなタイトルだったのもあって、Amazonでポチってしまいました。お金に余裕があった時期でした。んじゃなきゃ3000円も本に使ったりしない、普段のぼくは。

フェスを社会学的に分析したものになっていると思いきや、意外と「定義」や「歴史の検証」の部分に多くを割いていて、個人的に想像していた内容と合致はしていませんでしたが、それなりに楽しんで読めました。

そしてやっぱりばくとは相いれない文化だなあと思った。
ぼくは音楽を一人で楽しむ時間の方が圧倒的に多い。カラオケにもいかないし、現場にも足繫く通うたちではないし、行くとしても一人。
だって今では世界中の音楽をその気になればいくらでも聴ける時代なわけで、好きな音楽がバッチリあう最高の仲間に出会える確立なんてゼロに等しい。むしろ僕が嫌いな音楽を好き好んで聴く輩がはびこる世の中でぼくなんかが人と一緒に音楽を聴いて楽しめるわけがない。
というか周りに僕と同じくらい音楽に対して愛情を持っている人自体みつけるのが難しいわけで。「そういう人」たちに合わせて窮屈な思いするのも嫌だし、一人で音楽を楽しむスタイルに行きつきました。悲しい生き物だね。
でも仲の良い先輩と一回だけいったロッキン’15はとても楽しかったなあ。

もう本の話とは完全に逸脱しちゃうけど、たぶんこの本で語られているのと同じような体験をしたので書きますね。
この間、Linkin Parkのチェスターの訃報が入ってきたその日の夜、有名なロックバーであるロカホリで追悼と称して彼らの音楽がたくさんかかるというので「行ってみてもいいかな」と思って行ってきたわけです。渋谷店に行きました。
そしたらもう地獄でした。あれは完全に一人でいることを許容する空間ではなかった。
店内に横行する身内ノリ。音楽としゃべり声(叫び声)がほぼ同じくらいのボリュームで聞こえてくる窮屈な空間。
僕が期待していたのは(そんなものロカホリに期待するぼくが間違っているのですが)彼の歌声に聞き入りながら、彼らの音楽の素晴らしさを語り合うようなピースな空間。
それなのに周りの人間は流れる音楽に記号的な盛り上がりを見せるだけ。おそらく僕と同じように「間違えてきてしまった」人が2,3人いたのですが、ぼくを含めそういう人たちは30分も持たずに帰った。

これは別に大好きなボーカルの死に対する仕打ちがあんまりだから、という理由で不快になったわけじゃなくて、そこにいる人間が「音楽なんかどうでもいい、楽しく踊って飲んで遊びたい」というスタンスを大所帯で肩組んで誇示しているような「俺ら大正義」のような雰囲気を感じ取ったから。
この記事が最近話題になっていたけれど、彼のいうところの「断絶」を目の当たりにした。モロで。
この本で書かれているフェスも、おそらくこの問題と密接に結びついているよ。ロッキンでのピエール中野のDJを見たんだけどあれもロカホリとやってること全然変わらんわ。

オールナイトのヒップ・ホップイベントには2回くらい行ったことがあるけど、やっぱああいうイベントの方が音楽が好きな人が集まってる感じがして好きだなあ、ぼくは。
ずっと一人で過ごしてるけど。ちょっとくらい話せる友達がほしいなあ、と思わないわけではない。

本の話は全然してないけど、このトピックに関して書けることがあったので。
スポンサーサイト

Comment

Leave a Reply


管理者にだけ表示を許可する